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しかし、当時の巨人は僅差の試合に非常に弱く、いかに王が怪物的な打棒を振るおうとも、チームの優勝争いでは苦戦を強いられていた。結果として、1973年にはかろうじてシーズン最終戦でセ・リーグ優勝を決め、日本シリーズでも優勝したものの、1974年には中日にセ・リーグ10連覇を阻まれた。 本塁打記録への挑戦高速バス 京都 王の通算本塁打が600本を越えた頃から、ファンの間でも王の記録がメジャーリーグの記録に迫るものであることが認知され始めた。折りしも1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースを抜く715号を記録したことで日米ともに本塁打記録への興味が高まっていた頃であり、巨人の看板選手であった長嶋が引退したことも相まって、野球ファンの注目は王の記録に集まり始めた。 そんな中で1975年、キャンプ中に足を故障したことの影響で大きく出遅れ、33本塁打に終わり、13年守り続けた本塁打王の座を田淵幸一に明渡すこととなった。この時点で王は35歳であり、限界説もささやかれた。高速バス 大阪 しかし、記録への挑戦をモチベーションとして翌1976年再び打棒が爆発。64試合で30号に到達するハイペースで本塁打を量産した。この「64試合で30号」は、2001年にアレックス・カブレラがタイ記録を作ったものの、現在も最速記録である。そして10月10日の阪神戦でシーズン46号、47号を放ちベーブ・ルースの714号に並ぶと、翌10月11日、山本和行から715号本塁打(シーズン48号)を放ち、一気にルースを抜いた。高速バス 格安 同年、アーロンが引退。王の目標はアーロンの記録である755本に定まった。 新記録の756号まであと40本で迎えた1977年も全盛期と変わらぬ打棒を発揮。8月31日の大洋戦でアーロンに並ぶ755号(シーズン39号)をマーク。そして9月3日、対ヤクルト戦で、メジャーリーグ記録を抜く756号を鈴木康二朗から放った。この偉業が称えられ、国民栄誉賞第1号を授与された。世界新記録達成の年、自身3度目の1シーズン50本塁打達成となり本塁打王のタイトルを獲得したが、これが現役時代最後の本塁打王のタイトルとなった。 記録への挑戦が続いたこの2年はそれぞれ49本、50本で再び2年連続の本塁打王に返り咲き、連続でMVPに選ばれている。 「世界記録」高速バス 大阪発 王が756号を打った当時、日本では「世界一」と評されたが、ギネスブックは、球技においてはリーグのレベル等条件が必ずしも平等でないという観点から、競技全体の世界記録という概念を認めておらず、確認できる最高記録と一定のレベルのリーグ戦における記録を併記していることが多い(これは野球に限らず、どの球技についても同様である)。王の記録は、アーロンやジョシュ・ギブソンの記録と並んで本塁打記録の1つとして記載されている。また、本塁打においては球場の広さも重要な因子となるが、王の現役時代に巨人が本拠地としていた後楽園球場は、当時のメジャーリーグの球場と比較しても著しく狭い球場であった[6]。バリ 王貞治は日本では「世界の(本塁打)王」と呼ばれたが、日本以外の世界ではあくまで「日本の本塁打王」として知られており、英語圏のニュースでは Japanese home run king Sadaharu Oh として紹介される。高速バス 激安 日本でも落合信彦が『そしてわが祖国』(1995年集英社文庫)で、アメリカ人が王を本塁打の世界一と認めていないことを指摘していた。 なお、ハンク・アーロン自身は、王の記録達成に心から敬意を表し、紳士的に祝福した。以降、王とは現在も深い親交がある。高速バス 金沢 王の756号から30年後、2007年にバリー・ボンズが756 号本塁打を放った際、朝日新聞に王からボンズへの「僕の記録が世界一だなんて、誰も思っていない。ボンズと同じ土俵でやらなくちゃ」と言う祝福の言葉が掲載された。この謙虚なコメントを受け、米メディアは「王貞治は紳士中の紳士である」と賞賛した。また記録達成時にボンズは、王貞治の記録をどう思うか?の日本人記者の質問に「おめでとう」と答えている。高速バス 京都 しかし、日本プロ野球とはいえ868本の本塁打を打った事実は大きく、現在でも王を尊敬するメジャーリーガーは少なくない。また、王の現役時代に日本でプレーして王のプレーを直接知る者も同様に王を尊敬する者が多い。例えばメジャーリーグでも高名な選手だったクリート・ボイヤーは「メジャーリーグでも間違いなく最高のスラッガーになれる」と評し、巨人時代に指導者としての王に接したレジー・スミスは王について「今まで会った誰よりもバッティングのことを知り抜いている」と語っている。 晩年、そして引退沖縄 ダイビング 翌年の1978年には前人未到の通算800号を達成するが、本塁打は39本に終わり、本塁打王のタイトルは44本塁打の山本浩二に明け渡すことになる。この年は打点王を確保するが、これが現役時代最後に獲得した主要打撃タイトルとなった。 1979年は、打率.285、33本塁打、81打点に終わり、一本足打法に切り替えた1962年以来、初めて打撃三冠タイトルを1つも取れずに終わった(ベストナインには選出)。16年間連続で続いていたOPS10割、100四球の記録もこの年は.980、89四球と衰えは誰の目にも明らかであった。なお、この年の9月21日阪神戦で王にとって唯一の代打本塁打を放っている(ちなみに長嶋茂雄は13度の代打出場があるが代打本塁打は1本も記録していない)。バリ情報 そして1980年、打率は.236(その年の規定打席到達者の中で最低の打率)、30本塁打、84打点に終わり、ついにベストナインの選からも漏れる。OPSに到っては.803と一本足打法に切り替えた1962年以来では自己最低の数字であった。オーストラリア 留学 30本塁打は一般的にはスラッガーとして恥ずかしくない数字だが、ファンが王に求める数字としては物足りないものであり、王自身もそれを自覚していた。それでも王は、30号本塁打を放った時のインタビューで「来年の目標?笑われても言うよ、40本って」と語ったり、圧縮バットが禁止される翌シーズンに向けて練習では白木のバットを使い始めるなど、現役続行に意欲を見せていた。グアム ダイビング ところが10月、長嶋茂雄監督辞任、藤田元司監督の就任が発表され、藤田から助監督就任を要請された。藤田は要請にあたり現役兼任を考えていたと語っているが、現役続行か引退か迷っていた王はこの要請を受け、ついに決断を下した。バリ島 11月4日、現役引退を表明。「王貞治のバッティングができなくなった」が引退発表時の言葉だった。王が後日、引退を決意した瞬間について、「その年(1980年)の後楽園球場での中日ドラゴンズとの試合で、先発した戸田君(注:当時中日ドラゴンズに在籍していた戸田善紀のことである)の球がものすごく速く見えた。前の自分なら打てるはずの球が打てなくなったので、『俺ももう御仕舞いかなあ』と思ったんだよ」と語っている。ダイビング 1980年当時は秋のオープン戦が行われており、熊本県営藤崎台球場で行われた巨人vs阪神のオープン戦の最終打席にてライトスタンドへホームランを放っている。3塁を回ったところで阪神の選手たちがベンチを飛び出し、王は一人ずつと握手を交わした後ホームイン。これが最後の打席・最後のホームランとなった。サイパン ダイビング 引退セレモニーはシーズンオフのファン感謝デーの最後に行なわれ、ピッチャーマウンド上のマイクで挨拶があり、挨拶終了後に自ら左打席にバットを置きそのまま歩いて一塁ベース上にはファーストミットを置きに行き、同時に引退となる高田繁を呼び挨拶を行うように呼びかけた。この引退時のパフォーマンスは山口百恵のそれを取り入れた、といわれている。この年は長嶋茂雄の監督解任劇があり、王の引退により、ONを同時に失うことを恐れた巨人軍の対応から、この引退セレモニーはシーズン終了後よりかなりの期間をおいた11月近くに行われた。北海道スキーツアー 引退試合後に堀内恒夫を投手として招いて正真正銘の最終打席を行った。が、堀内の渾身のストレートにより空振り三振に仕留められた。また入団時のポジションである投手に戻って堀内と勝負したが、こちらも堀内にレフトに本塁打を浴びた。王の最後の打席への堀内の投球は、1球目にドロップ(縦のカーブ)。2球目もドロップ。3球目にストレートであった。 王の記録への評価 打撃ANAツアー 同時代の選手で通算本塁打数2位である野村克也の657本に200本以上の大差をつけ、通算打率1位の張本勲の記録にも300本以上の差、長嶋に400本以上の差を付けている。野村の所属した南海ホークス本拠地の大阪球場は両翼84m、中堅115.8m(1972年に両翼のみ91.4mに拡張された)と、狭いとされる後楽園よりもさらに狭いグラウンドであった。このように王の傑出性は同時代の1流プロ野球選手と比較して突出しており、1980年代に川崎球場を使用していた落合博満や、ラッキーゾーン付きの甲子園球場を使用していたランディ・バースなどのような、日本プロ野球の技術向上と箱庭球場のアンバランスさが生んだ「怪物」とは異なるといえる。